其の二
与力とか同心とか言うと、今では八丁堀のそれだけになってしまったくらい有名であるが、もともとは与力という字は、寄騎と書いたものらしく字の通り騎兵である。
そしてこの八丁堀の、つまり町奉行所属の与力は、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。
取り高は200石でも、知行取りで、それも大抵は安房か上総が知行所になっていた。これ以外にも収入がある。
時代劇の定番テーマの1つである。
それは、それぞれの大名屋敷は、自分の屋敷に起こった事件を表沙汰にしないで、普段から定まった与力をお抱えのようにして置いている。
直接その与力に頼んで、内々で事件を片付けていた。与力もそれを余得としている。その礼として盆暮れには50両くらいは貰っていた。
与力もそれを自分1人のものには出来ないので、それぞれ部下の同心とか岡っ引きに分けていた。
町与力組頭クラスは2百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いでいた。
ただし、罪人を扱うことから不浄役人とされ、将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されない。身分上は御家人である。
旗本のような、御家人のような、また町人のような一種別格な特殊な存在であった。
組屋敷は八丁堀で、役としては、火付盗賊改め、市中を見廻る者、奉行所へつとめる者などに分かれている。
中でも最も重い役は吟味与力と称して、御白洲で罪人を調べる与力である。
着る物は羽織で着流し、二本差で、裏白の紺足袋に雪駄。
但し八丁堀風といって、一目で分かるほど、武士としては柔かい物を身につけて、着物も長めに着ている。
馬に乗るときは野袴を穿いて、ぶっさき羽織、陣笠、鞭という姿である。十手は持たない。
八丁堀七不思議の1つに「奥様あって、殿様なし」というのがある。
これは奥様と呼ぶ以上、その家の主人は当然殿様と呼ぶべきであるのに、八丁堀の与力は旦那と呼ばれていた。
旦那といえば御新造というべきであるための不思議である。